しつけを始める前にじっくり考えてみたい3つのこと
“しつけ”というと社会の規律や集団ルール、礼儀作法を教えること、と思っていませんか? もちろんそれは間違いではありません。しかし「周りに迷惑をかけない、おりこうさん」にすることだけが、“しつけ”の本当の目的なのでしょうか?
今回は“しつけ”本来の目的や、子どもの側から見た“しつけ”について考えていきたいと思います。
育児ガイド本などではよく「しつけは親の言葉を理解できるようになる1歳半頃から」と書かれています。
もちろん個人差はありますが、ここで大切なのは、1歳半から“しつけ”を始めることではなく、
“しつけ”を始めるまでに親子の信頼関係をしっかりと育むことにあると思います。
大人でも同じです。知り合いのAさんに自分の欠点を指摘されたときはイラッとしたけれど、親友のBさんに同じことを指摘されたときは素直に聞けた。そんな経験はありませんか?
誰もが、自分の気持ちをわかってくれる人に信頼と愛情を寄せ、その人と一緒に生きていきたいと思うからこそ、受け入れ難い言葉やルールも受け入れる努力をします。
大好きなママやパパが「やりなさい」と言う。自分はやりたくない。それでもママやパパと一緒にいたいから、我慢してやってみる。
そんな葛藤と苦しみの中で、子どもたちは日々生き方を学んでいくのです。
<<「しつけ」という語は本来、着物を「仕付ける」ことと結びついて、私たち日本人の生活の中に根をおろして来ました。>>(岡本夏木著「幼児期」岩波新書 p25より引用)
着物を縫うときのしつけ糸は、本縫いの後はずすものです。だからこそしつけ糸はゆるく縫いますが、しつけ糸がなければ着物は美しく仕上がりません。言うまでもなく「しつけ糸」は大人が子どもに行う“しつけ”にあたり、「本縫い」は子ども自身が考え、行動し、つくりあげていくものです。
この、いつかはずす、という前提を考えずにガチガチに“しつけ”てしまうと、どういうことが起こるのでしょうか?
「言われた通りにしか行動できない」「怒られるのが怖いから言うことを聞く」そんな子どもを増やすことになりはしないでしょうか?
<<「ヒトリデ ハヤク デキルコト」、これが能力主義のスローガンです。>>
<<しかしそれが、単純な一方的強調で終る時、危険をはらみます。そこでは子ども同士が「できない子」「助けられる子」「遅い子」を軽蔑の対象としてゆくからです。>>
(岡本夏木著「幼児期」岩波新書 p9より引用)
人間には得手不得手があります。当然誰もが同じように「ヒトリデ ハヤク デキル」わけではありません。“しつけ”の中では「ヒトリデ ハヤク デキル」ことを褒めるのではなく、そうしようと努力する姿勢をこそ褒めたいものです。
そして実は、できないことがあるからこそ人は助け合い、結びつくものです。できないことをよくないことと思わせるのは、長い目で見ればできる子・できない子双方をどんどん孤独にさせていくのではないでしょうか。
さらに、“しつけ”の中ではよく、親がお手本となるように言われますが、親がいつも完璧である必要もありません。親が苦手なことを嫌がりながらも奮闘する姿の方がよほど、子どもの共感とやる気を引き出すこともあるのです。
しつけとは実は、決められた形を習得する訓練ではなく、自分のやりたいことと他人が求めることのバランスをとりながら、生き方を学ばせることではないでしょうか。
子どもを物のように扱い教え込む“しつけ”ではなく、子どもに考える余地を与え、いつかはずす“しつけ”を心がけたいものですね。
17/11/10
17/05/15
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“しつけ”というと社会の規律や集団ルール、礼儀作法を教えること、と思っていませんか? もちろんそれは間違いではありません。しかし「周りに迷惑をかけない、おりこうさん」にすることだけが、“しつけ”の本当の目的なのでしょうか?
今回は“しつけ”本来の目的や、子どもの側から見た“しつけ”について考えていきたいと思います。
“しつけ”は愛する人からされるからこそ意味がある
育児ガイド本などではよく「しつけは親の言葉を理解できるようになる1歳半頃から」と書かれています。
もちろん個人差はありますが、ここで大切なのは、1歳半から“しつけ”を始めることではなく、
“しつけ”を始めるまでに親子の信頼関係をしっかりと育むことにあると思います。
大人でも同じです。知り合いのAさんに自分の欠点を指摘されたときはイラッとしたけれど、親友のBさんに同じことを指摘されたときは素直に聞けた。そんな経験はありませんか?
誰もが、自分の気持ちをわかってくれる人に信頼と愛情を寄せ、その人と一緒に生きていきたいと思うからこそ、受け入れ難い言葉やルールも受け入れる努力をします。
大好きなママやパパが「やりなさい」と言う。自分はやりたくない。それでもママやパパと一緒にいたいから、我慢してやってみる。
そんな葛藤と苦しみの中で、子どもたちは日々生き方を学んでいくのです。
“しつけ”はいつかはずす「しつけ糸」のようなもの
<<「しつけ」という語は本来、着物を「仕付ける」ことと結びついて、私たち日本人の生活の中に根をおろして来ました。>>(岡本夏木著「幼児期」岩波新書 p25より引用)
着物を縫うときのしつけ糸は、本縫いの後はずすものです。だからこそしつけ糸はゆるく縫いますが、しつけ糸がなければ着物は美しく仕上がりません。言うまでもなく「しつけ糸」は大人が子どもに行う“しつけ”にあたり、「本縫い」は子ども自身が考え、行動し、つくりあげていくものです。
この、いつかはずす、という前提を考えずにガチガチに“しつけ”てしまうと、どういうことが起こるのでしょうか?
「言われた通りにしか行動できない」「怒られるのが怖いから言うことを聞く」そんな子どもを増やすことになりはしないでしょうか?
「ヒトリデ ハヤク デキルコト」を強調する危険性
<<「ヒトリデ ハヤク デキルコト」、これが能力主義のスローガンです。>>
<<しかしそれが、単純な一方的強調で終る時、危険をはらみます。そこでは子ども同士が「できない子」「助けられる子」「遅い子」を軽蔑の対象としてゆくからです。>>
(岡本夏木著「幼児期」岩波新書 p9より引用)
人間には得手不得手があります。当然誰もが同じように「ヒトリデ ハヤク デキル」わけではありません。“しつけ”の中では「ヒトリデ ハヤク デキル」ことを褒めるのではなく、そうしようと努力する姿勢をこそ褒めたいものです。
そして実は、できないことがあるからこそ人は助け合い、結びつくものです。できないことをよくないことと思わせるのは、長い目で見ればできる子・できない子双方をどんどん孤独にさせていくのではないでしょうか。
さらに、“しつけ”の中ではよく、親がお手本となるように言われますが、親がいつも完璧である必要もありません。親が苦手なことを嫌がりながらも奮闘する姿の方がよほど、子どもの共感とやる気を引き出すこともあるのです。
まとめ
しつけとは実は、決められた形を習得する訓練ではなく、自分のやりたいことと他人が求めることのバランスをとりながら、生き方を学ばせることではないでしょうか。
子どもを物のように扱い教え込む“しつけ”ではなく、子どもに考える余地を与え、いつかはずす“しつけ”を心がけたいものですね。